ブッダの瞑想法――その実践と「気づき(sati)」の意味(1)
2018.10.19
日本テーラワーダ仏教協会(渋谷区 宗教法人)の編集局長として、仏教や瞑想に関する情報発信を長年続けてきた佐藤哲朗さんに、ヴィパッサナー瞑想法のあらましと、実践にあたって理解すべきポイント、また初心者が陥りやすい誤解などについて伺いました。4回にわたって連載します。
日本テーラワーダ仏教協会:アルボムッレ・スマナサーラ長老の指導のもと、お釈迦さまの教え(初期仏教)を社会に紹介し、人々が法を学び修行できる環境を整え、生きとし生けるものが幸福に達するためのお手伝いをする目的で活動している。
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佐藤哲朗氏(幡ヶ谷・ゴータミー精舎のブッダ像 前で)
Q1 こちらの協会では、ヴィパッサナー瞑想を指導しているそうですが、なぜ、今、注目されているのですか。
ヴィパッサナー瞑想は、観察瞑想とも言われます。経典に使われるパーリ語から説明しますと、「ヴィ」というのは「よく・詳細に」、「パッサナー」は「観る」という意味になります。つまり、「よく観察すること」という意味になります。
現代的なヴィパッサナー瞑想は、ブッダの時代から連綿と実践されてきた、「四念処」、身・受・心・法の四つのアプローチで現象を観察する修行法に基づいてアレンジされています。四念処の「念」の原語は「サティ」で、現代日本語では「気づき」と訳されていますね。ですから、ヴィパッサナー瞑想を親しみやすく「気づきの瞑想法」と呼ぶこともあります。
これまでの日本社会で行われてきた「瞑想」というと、何か特定の対象をこころにイメージして精神集中するとか、ひたすらマントラ(真言)を唱え続けるとか、そういう宗教的・神秘的な「行」という印象が強かったと思います。あるいは「禅問答」という言葉にあらわれているように、何か不条理な世界に自分を追い込んでいくような感じもありましたよね。
それに対して、ヴィパッサナー瞑想では神秘的なシンボルや呪文、こころが作り出すイメージまでも一切排除して、科学的にものごとを観察というアプローチを取ります。客観的に自分(と呼ばれている現象)を観察するということで、これは宗教というよりは「心の科学」(スマナサーラ長老)なのだと、現代人にも受け入れやすかった、フィットしたということではないでしょうか。「観察=瞑想」という合理性が、宗教よりは科学を信頼する現代人のマインドにも合致したということですね。長い歴史を持つ仏教国である日本の人々にとっても、ヴィパッサナー瞑想は新鮮な驚きをもたらしたのです。
四念処……「気づき(サティ)」を備えて、身(身体の要素や動き)・受(身心の感覚)・心(こころの状態)・法(解脱に資する諸々の概念)という四つのチャンネルを観察し、「一切のものごとは執着に値しない」と発見して解脱に達する修行法。絶えず生滅変化する「身・受・心・法」の状態・あり方に不断に気づき、注意し続ける「気づきの実践」を通して、現象へのとらわれ・執着を離れ出世間の智慧を開発する実践である。
――ブッダの瞑想もヴィパッサナー瞑想と考えてよろしいでしょうか。
ヴィパッサナーという単語自体は、パーリ経典の中にそんなに頻繁には出てこないのですが、サティパッターナ(念処)、いわゆる気づきの瞑想といわれる四念処の実践はいたるところで言及されていますし、中村元博士の翻訳で日本人に親しまれている『スッタニパータ』の中でも、“サティ”(気づき)という言葉はたくさん出てきます。いわゆる『スッタニパータ』の一番古層の部分にも、サティという言葉が出てきます。気づきを絶やさない、ということですね。
そのサティの実践が教学的に整理されていった時、ヴィパッサナーという単語で表されるようになったのです。まあ、細かいところでは異論も成り立つかと思いますけれど、一応、テーラワーダ仏教の伝統の中では、サティの実践・観察の実践が即ち、ブッダの瞑想法ということになります。
なぜ、そう言い切っちゃうかといえば、いわゆる精神集中的な瞑想ならば他のどんな宗教でも教えていますが、サティの実践・観察の実践ということは、お釈迦さま以外の誰も発見しなかったからです。サティの実践・観察の実践を発見したからこそ、お釈迦さまは覚りを開いてブッダになったのだと、仏教徒は確信しているわけです。
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