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初期仏教を学ぶ仲間たちへ



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協会の記事ではありません。 吉水 秀樹 安養寺住職 のfbより紹介です。

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初期仏教を学ぶ仲間たちへ

 日本人の私たちが初期仏教に出会ってお釈迦さまの教えを原点から学び始めますと、大乗仏教と根本仏教(正真のブッダの教え)という、二つの仏教をつくってしまいます。学べば学ぶほど、日本の仏教は純粋なお釈迦さまの教えからズレていることに気づきます。そもそも如来は一人だし、多くの菩薩や如来はいったい何処からやって来たのか…?とか。大乗仏教の経典のほとんどに仏説と書かれてあります。しかし、これらが実在したお釈迦さまの言葉とは関係なく、後に生まれた人が創作したのもので、史実ではないことを知ると、怒りの気持さえ抱きかねません。

 ここで一つ大切なことに気づかなければなりません。「二つの仏教をつくったのは誰なのか?」という問いです。少なくとも、最澄も空海も仏教を学ぶ為に中国に渡りました。法然もそれ以後の祖師も、お釈迦さま教えを求めて道を歩みました。それらの祖師の功績で日本には豊かな仏教文化が存在します。これらの仏教文化が中国仏教に影響されているのは当たり前で、それを間違とは言えません。

 問題は何時でも、あなたであり私です。多くの人はこの二つの仏教を自分がつくったとは考えていないようです。このような考えを分別というのですが、仏教用語での分別は煩悩による間違った見解です。自分で勝手に本を読んで歴史を学んで、二つの仏教をつくりました。二つとは対立を意味します。大乗仏教は優れているが、小乗仏教は劣っている。とか、テーラワーダ仏教は優れているが、大乗仏教はニセモノとか。このような見解を作っているのは、間違いなくあなたであり私です。

 初期仏教の長老は、「そもそも、私は〇〇が気に入らん!、と考えだしたら生きられません。いろいろな理由があって物事が起きています。それらに文句を言う人が愚か者です。仏教の慈悲とは、他の人の生き方を認めて、それは放っておくということです。」と仰っています。この言葉は深い洞察から生まれていると思います。

 対立をつくっているのは誰でしょうか? 見解をつくったのは誰でしょうか? 不愉快な思いをつくったのは誰でしょうか? 分別したのは誰でしょうか? 思考したのは誰でしょうか? 一つの仏教を分裂させたのは誰でしょうか? 一つを分けたのは誰でしょうか? 「我」は何処にあるのでしょうか? この分別の壁を超えるのが仏教であり冥想だと私は思います。そこに二つはありません。

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