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協会の記事ではありません。
サークル仲間の所感です。
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3月14日 瞑想日記 『死への不安をなくすには?』
昨日、スマナサーラ長老のオンライン法話を拝聴しました。生死を彷徨われた後の法話なのか、お声に元気がないのですが、いつもより穏やかで力強く感じました。
最初の法話は、「輪廻の不安をなくす教え?」というテーマでした。正直なところ、私には死への不安はありません。仏道を歩んだお陰だと思います。中核にある「ありのままを見る」教えと、「慈しみの心を育てる」瞑想を実践したお陰で、すべてはなるようになるし、不安を感じている暇があれば、慈悲の言葉を唱え、気づきの瞑想をして暮らしています。
長老の返答で私の印象に残ったのは、「生きることは流れである」「思考の流れです」という言葉でした。その思考の流れは、死んでも続くのが輪廻と言うことになります。輪廻することは大問題で、そこから解脱することが仏教の核心の教えではありますが、輪廻のメカニズムを知って、こころを育てれば、むやみに地獄・餓鬼…悪趣に生まれることもなくなると思います。それは、思考の流れであり、そこに因果法則があるからです。
この世の中の現実を見ても、優しいこころの人は優しいし、急に怒りだしたりしません。欲や怒りの感情で生きている人は、いつもそのように怒っています。それも思考の流れだからです。
ヴィパッサナー瞑想を学んだ人なら、不安や恐怖が現れても、そのこころを観察して流れを断ち切ることができます。難しいことでもなく、「私は不安に思っている」「私は怒っている」と、今ここのありのままを見るだけです。それで見事に流れが変わります。
そこで、暇があれば慈悲の言葉、【すべての生きとし生けるものが幸せでありますように】と唱えていれば、ほんとうにそのようなこころが育ってきました。
また、私は恐怖の仕組み、因果法則も見えてきました。恐怖はその恐怖から逃げること、そのものから逃避することが恐怖の正体です。病気になって、死を恐れている人は、ただ病気から逃げ、死から逃げたいと考えていて、それが恐怖の正体です。
それに対して、仏教の真理は、【四苦=生老病死】です。生まれたら、老いて、病気になって死ぬ…、このシンプルな流れは誰一人、どんな生命も逃れることはできません。仏教で説く、【不死】とは、そのあるがままを認める、達観する、諦めることです。
生まれたら、老いて、ボロボロになって病気になって、死ぬ…これが当たり前のことですから、何一つ恐れるものではありません。そうなりたくないのは、誰しも思うことですが、その考えに執着することが苦しみです。
私もずいぶん歳とって、身体は壊れてきています。嬉しいことではありませんが、それで不安になったり、恐怖は感じません。
そのようなこころで生きる人の方が、現実の痛みも軽く、楽に生きられると思います。その上に、苦しみの生存に大した価値がないと真理をしったら、もう無敵です。
慈悲のこころを育てて、気づきを保って生きる以外に何にも望むことがありません。
このようなこころを育てられたのは、スマナサーラ長老のお陰です。無力な私ですが、長老の健勝を祈念します。
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